29 April, 2008

大阪で考えさせられたこと


さっきアップした時にはあまりに趣きが違うので書きませんでしたがふっさんとぶらぶらしてるときにショッキングなことがありました。
道頓堀川沿いのデッキに座って話していると身障者の愛称をQちゃんという方が僕らの方へあごを使って運転する電動の車椅子でやってきて話しかけてきました。
初めは何を言っているのか聞き取れなかったけど、Qちゃんの椅子に置いてあるポーチに入っているチラシを取ってくれ、と。
取って見てみるとクッキーが○○円、とかコーヒーが○○円とかいろいろ書いてありました。
ある喫茶店の協力を受けて自分で商品を売って回っているとのこと。
(車椅子の後ろに商品を積んでいるらしい。)
その紙には「こんな僕でも社会の中で生きていきたい!」と書かれていました。
突然過ぎたのでよくわからないまま「お腹減ってないから」と断りましたがあれは実際どうなのだろう?本当にQちゃんはちゃんと見合った報酬を貰っているんだろうか?とか「こんな僕でも社会の中で生きていきたい」というメッセージは本当にQちゃんが考えたんだろうか?とかいろいろ考えてしまいました。
一通り営業をした後、スーツを着た男性に連れられていきましたがその人は誰?とも思いました。
世の中には身障者の方が不当な労働をさせられていることがよくあり、素直にこの人は偉いなあ、というように思えなくなってしまった僕みたいな人間がいっぱいいると思います。
また障害者自立支援法などという聞こえは良いが内情サイアクな法律のおかげで働かなければ生きていけなくなってしまっているんだろうか、など色々と考えさせられました。
たぶん嫌な気持ちになることも多々あるだろうし、健常者でもやらないようなことを続けなければいけないってのはどうだろう?と。
その後堀江公園にいるとさっきのところからはけっこう離れているのに、またQちゃんがやってきて公園にいる人達に営業をしていて、全く見向きもされず無視されているのも何度か見かけました。
僕はやっぱりこういうのを同情で買ってあげるのは違うな、と思いました。
健常者とQちゃんを同じ立場に置いて考えたときにこちらが欲していないのに飲み物や食べ物を売りに来るのはやっぱりダメでしょう。
(出店で売るのではなぜダメなんだろう?車椅子に乗って売るほうが売る人へ伝わりやすいから?断りづらいから?など邪推をしてしまいました。)
むしろうっとうしいくらいです。
ただそれを身障者の方に「うっとうしい」とはどんな受け取り方をされるかが分からないので言えません。
僕は普通のおじさんがいきなり頼みもしないのに売りにきたら、平気で「うっとうしい」と言えるので、そのことを僕がQちゃんに言えない時点で僕は区別しているのだろうと思ったし、やはり多くの人は社会に於いて公平に見てくれないんじゃないかな、と思いました。
こういったことをここに書くことも神経質になってしまうので躊躇したのですがいろいろ考えさせられたので書いておこうと思いました。
皆さんはどう思いますか?
(僕は買ってあげることも断ることも悪いことだとは思っていませんので、一応。)

2 comments:

Anonymous said...

こんばんは。akです。
fujii.さんが見たQちゃんの姿と行動がWショックであったこと、想像に難くありません。

Qちゃんの表情とかを実際に見ていた訳ではないので憶測になりますが、、、
私は単純に彼は他の人と関わっていきたい、社会の中で生きたいという思いでそのような行動をとっているのではないかなと思いましたよ。

自分で作ったあるいは仕入れたクッキーを買っていただき報酬を得る、この一連の作業の中で、通常なら利益・報酬が一番の目的ですが、彼の場合は違うのかなという気がします。もちろんこれで生活費が稼げればこの上ないことだと思いますが、そんなにお金になるとも思えないし。

少し前に障害者の方が主人公のドラマがありました。主人公の女の人が子供を産んで、ケーキ屋さんで働き生活費を稼ぐという。テレビ番組ってその時代の社会を反映するものだと思うので、そういう人も多いのかも。もしくは、それに感化されて奮い立つ人も。
で、何がいいたいかというと、私はfujii.さんのような人が増えることだと思います。立ち止まって考える人。そういう人が次同じ状況に遭遇したらまた一つ違った行動に出るかもしれない。もっとコミュニケーションをとるのかもしれない。
そこまでしなくても、こうしてブログに書くことがもう十分なのかもしれない。そう思います。

naoyafujii said...

おっしゃるように僕が邪推したことがただの思い過ごしであれば、それはそれは素晴らしいことだと思います。
ただいずれにせよ、商売というのはPRなど大切だと思いますが”待つ”姿勢でいて欲しいな、と思いますけどね・・・(苦笑)。
ともあれ、こういうことに気づき考えることは大切だと思うのでいい経験をしたなあと思っています。
無関心ということは最も愛がないということですよね。